パンの耳がすき

読書日記と、たまにカフェ日記。植物日記も。

【日記】コテンラジオがすきです。

散歩のとき、基本的に音楽を聴いていることが多いんですが、たまにSpotifyでコテンラジオを聴いています。コテンラジオというのは、”歴史を愛し、歴史を知りすぎてしまった歴史GEEK2人と圧倒的歴史弱者がお届けする歴史インターネットラジオ”というやつです。

 

なんの話の回だったかよく覚えていないんですが、とてもいい話だなーと思ってスマホにメモを残していたので、それをちょこっとここに記しておこうかなと。

 

深井さんが歴史をずーっと学んできて思ったことは、「感情を大事にした方がいいし、結果的にロジカル的に見てもそうなる」ということだったそうです。

 

なぜなら、人を機能としてみていると、チームは必ず崩壊するから。そもそも人を道具としてみていると信頼関係は築けないそうです。

 

そして大前提として、人を理解することなんてできないのだと肝に銘じておくこと。

でもだからこそ、人を理解しようとする姿勢が大事。

 

人を理解するには忍耐が必要であり、それを続けたときにブレイクスルーが起きる。もやもや、ざわざわ、めんどくさいの先にあるものを見に行く。それでもどうせ理解できない。でもそれをする。

 

人を判断しない。評価しない。待ってあげる。
自分の狭い価値観を一旦捨てる。主観を捨てる。自分を放棄してみる。
 
どうせわからないというフィルターをかけてしまうと、もう絶対に理解できない。
多面的に見る。二元論で語れることなんてない。善と悪しかり。人工と自然しかり。
 
そしてそこで参考になるのが、「唯識」という考え方。
 

ゆい‐しき【唯識

《(梵)vijñapti-mātratāの訳》仏語一切対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはなということまた、この識も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえないことをも含む。法相(ほっそう)宗の根本教義

 
この唯識論というやつが、とても難しくて、調べ始めるとわからないことだらけなんですが、、。
 
深井さんの言っていたことを参考にめちゃくちゃ簡単に説明してみると、
 
 
自我とは自分という乗り物の操縦者と考えてみる。
乗り物と操縦者を分けて考える。
つまり、思考方法と人格はべつものである。
一貫性のある人間なんていないことを理解する。
人間は矛盾の塊である。
 
うーん。わかったようなわからないような。
でもとても興味深いので、唯識論について、またじっくり調べてみようとおもいます。

【読書日記】考えるために書く。

「自由に本音をかける場所」としてブログを書き始めたけれど、だからと言って文章力の向上を怠るのはよくないことな気がしてきた。わざわざそんなものをこうして世界に公開しているということは、少なからず誰かに何かを伝えたい、繋がりたいという思いがあるからだ。

 

ということで、古賀史健さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んでいる。図書館で借りてきたんだけど、とてもよさそうなのでこれは購入しようと思う。

 

ひとまず、ガイダンスの内容をアウトプットしてみる。

 

  • 「書こうとするな、翻訳せよ」の原則を頭に叩き込む
  • 文章とは「頭の中の『ぐるぐる』を伝わる文章に”翻訳”したもの」であるという定義を持つ
  • 文章を書きあぐねている人、うまく書けずにいる人は”翻訳”の意識や技術が足りていないのだ、という認識を持つ
  • われわれは「書くために考える」のではなく、「考えるために書く」のだということを意識する
  • 「書く」というアウトプットのプロセスを通じて、われわれは自分なりの解を得ていく

 

そもそもなぜ文章を書けないという問題が発生するのか?

著者に言わせると、それは書こうとするからである。書こうとするから、書けなくなるのである。

 

だからいっそ、「自分の気持ちを書く」という意識は捨て去ってしまおう。

 

自分の”感じ”や”思い”を文章として正しくアウトプットするためには、書くことをやめて”翻訳”する。頭の中の「ぐるぐる」を整理して、正しく翻訳する。自分という人間の”翻訳者”になってみる。そのために、”翻訳”の意識を持ち、技術を身に付けていく。

 

われわれはどうして”翻訳”をするのか?

伝えるためだ。

伝えたい相手がいるからだ。

他者でも読者でも、言葉はなんでもいい。

誰かになにかを伝えたい、つながりたいと思うからこそ、”翻訳”をするのだし、しなければならないのだ。 

 

拙い文章ながらも、こうしてブログなんかを書いていると思考が整理されてすっきりする感覚がある。だからこそ頭の中の「ぐるぐる」をもっときちんと翻訳できるようになったら、それはとてつもなく気持ちいいことなんだろうと思う。翻訳できるようになりたい。

 

 

【読書日記】10年前の自分がかけて欲しかった言葉は?

「普通はみんな、どうしますか?」

 

学生の頃、進路を決めたり、なにか大きな決断をするとき、担任の先生にこんな質問をしていた。

 

先生や親からは「普通であること」こそ求められているんだと、子どもながらに察知していたんだと思う。正確に言うと「普通に優秀」くらいかな。

 

周りの期待に応えようと、「普通に優秀」であろうと、必死だった。

子どもの頃の周りの大人の影響というのは、ほんとうに凄まじい。

 

でもそうやって生きていると、だんだん自分では何一つ決められなくなって、自信をなくして、自分の人生を生きているってかんじがまるでしなかった。

 

受験勉強にだってちっとも身が入らなかった。半分も集中できてなかったと思う。

 

それは自分の人生を生きていないんだから、当然だ。

 

「自己納得感」こそが大切なんだと、今になると思う。

 

どんなにちいさなことでも、周りからはくだらないと言われることでも、自分が幸せだと感じるならそれでいいんだよと、あの頃の自分に言ってあげたい。

 

有益な情報とは、往々にして「もしこれを10年前に知っていたら!!」と思わせるものである。10年前に知っていたら、自分の人生は変わっていたかもしれない。10年前に知っていたら、あんな苦しい思いをせずにすんだかもしれない。あんなに悩まずにすんだかもしれない。

もし、そんな思いがあるとしたら「10年前の自分」の椅子に座ればいい。「10年前の自分」に語りかけるようにして書けばいいのだ。彼や彼女がどんな景色を見て、どんな悩みを抱えているのか。どんな言葉を嫌い、どんな言葉に耳を傾け、どう伝えれば納得してくれるのか。すべてが手に取るようにわかるはずだ。

 

ちいさな幸せを追いかけて行った先にこそ、自分が心から納得できる未来があるんじゃないかなあ。そうだといいな。

 

 

【読書日記】「嫌い」を掘り下げてみる。

「好きなことは何ですか?」

こう聞かれて、困ってしまったことはないだろうか。

 

私は、ある。なんならいつも困っている。

「本が好きです」

「カフェが好きです」

「散歩が好きです」

そんな風に答えていたけど、よくよく考えてみると、嫌いな本も嫌いなカフェもたくさんあるし、どんな道でも散歩したいわけじゃない。むしろ「嫌い」の方が多いかもしれない。

 

ではいっそ、「嫌い」について考えてみてはどうだろうか?

 

こんな本は嫌い。こんなカフェは嫌い。こんな道は嫌い。こんな人は嫌い。

 

じゃあそれはなぜなのか。どんなところが嫌いなのか。

 

そうやって考えてみると、「嫌い」の感情もあながち悪いものじゃないことに気づく。むしろ「好き」のヒントを与えてくれていたのかもしれないのだと。

 

「嫌い」を冷静に見つめて、認めて、考察してみることも悪いことじゃないんだと、最近はようやく思えるようになった。少しくらいは、心に余裕ができたってことなのかなあ。

 

 本を読むにあたっては、手当たり次第に読んでみること。

 しかし、そこで下手に”お勉強”しようとせず、自分の好き嫌いをはっきりさせながら読むこと。

 言い換えるなら、思いっきりわがままで、感情的な読者になること。

 そして自分が”嫌い”と感じた理由を、徹底的に掘り下げてみよう。生理的な”嫌い”の理由を、言葉にして考えてみよう。

 そうすることで、書き手としての自分がどうありたいのか、これからどんなところに注意すべきなのか、自分の個性とはなんなのか、さまざまなことが明らかになるはずだ。

 ”嫌い”のなかには、往々にして”好き”以上に根深い理由があるのだ。 

 

たまには自分からは選ばなそうな本も読んでみるかな。

 

 

【読書日記】句読点の打ち方に悩む。

いざ自分で文章を書くようになると悩まされるのが、句読点の打ち方。

 

"自分で音読してみて息継ぎをするところ"

というなんとも小学生的な感覚でつい書いてしまっている。

 

例えば、木皿泉さんの「さざなみのよる」の中の一節。

 

アイスクリームが緑色のソーダ水にとけて雲のような泡状のものがあふれ出てくる。それをあわててスプーンですくって口に運ぶが、たよりない味だった。それはアイスでもソーダでもない、よくわからないもので、まるでここにいる自分のようだと愛子は思った。 

 

最初の一文、 私ならきっとこう書いてしまう。

 

アイスクリームが緑色のソーダ水にとけて、雲のような泡状のものがあふれ出てくる。 

 

 だけど、きっとぼーっとその景色を眺めていたであろう愛子を想像すると、やっぱり読点はない方がしっくりくる。

 

その方が、どこか上の空でただ目の前の現象を眺めている感じが伝わってくる。

 

こういうとても繊細な、ちいさなこだわりを発見すると嬉しくなる。

 

ほんとのところはどうなのかわからないけれど。まあこれも受け手の自由ってことでいいんじゃないかと思う。

 

 

 

【読書日記】ちっぽけな選択を積み重ねていこう。

言葉は往々にして、発信した方ではなく、受信した方の感受性に意味の全てがゆだねられている。 

 

住野よるさんの「君の膵臓をたべたい」を読んでいて、こんな言葉に出会った。

 

「全て」と言い切ってしまうところがおもしろいな、と思った。

 

本書の主題とも言える、「人生は選択の連続である」というのは実はそんなに大それたことを言ってるんじゃなくて、それは小さな小さな選択の積み重ねだ、ということなんだと思う。

 

例えば昨日、今年になって初めて蝉の鳴き声を聴いた。

 

ああ今年も夏が来たんだなあ。と、ちょっと嬉しい気持ちになった。

 

そんな蝉の鳴き声ひとつにしても、まるで聴いていない人もいれば、うるさくてイライラしてしまう人、夏が来た!とはしゃぎだしたくなる人もいる。

 

こういうのも、とてもちっぽけだけど、ひとつの選択なんだろうと思う。

 

刺激と反応の間には「認知」という主観があって、人は「認知」や「意味付け」を変えることで、いかようにでも反応、すなわち、思考、行動、感情を変えることができる。すべては自分の選択の結果であり、いかようにでも選択を変えることは可能なのだ。 

 

アドラー心理学ではこのような考え方をするそう。

 

私たちは無意識のうちに、一体どれほどの選択をしているんだろう。

 

 

【読書日記】真剣であることと、深刻であること。

ずっと憧れのブロガーさんがいます。

 

tsuputon7.hatenablog.com

 

素敵な言葉をたくさん紹介されていて、とても勇気づけられます。

 

名言をただ紹介するんじゃなくて、自分の知識とか経験と関連付けたり、他の言葉との共通点を見出したり、ご本人の考えもそっと添えつけていたりして、とても読みやすいです。心にすっと入ってくるかんじ。

 

きっと優しい方なんだろうなあ。

 

私はまだまだこれっぽっちも及ばないけど、こんな風に、だれか一人でも勇気づけることのできる文章を書けたらいいなと思うばかりです。

 

てことで、これからも私自身が心動かされた言葉たちを紹介していきます。(引用文に頼りすぎ疑惑はあるけれど。。)

 

哲人:目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。

 

青年:真剣だけど、深刻ではない。

 

哲人:ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。 

そしてもうひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。

 

私的には、「真剣」ってのは目がきらっと輝いているイメージ、「深刻」ってのは呼吸が浅くなってて、顔に影が差してるようなイメージです。

 

全然違うのに、取り違えがちですよねえ。気をつけないと。

 

 

 

 

【読書日記】足元に目を向けてみる。

日常は、習慣の塊だと思う。

 

毎日当たり前に、ふつうに日々を過ごしていると、日常のささいなことには何も疑問を持たなくなってしまう。

 

細かいことひとつひとつに「なんで?」を繰り返していると、物事が先に進まなくなってしまうから、仕方ないこと。

 

だからもっと先に目を向けて、足元の小さな疑問には目をつむって、超特急で進んでいけばいい。効率だけを意識して。機械のように。

 

組織というものはどうしても、そうなってしまうのかもしれない。

 

それは家族という小さな組織でもそうだし、学校とか会社とか国とか、大きくなってくるともっと当てはまる。

 

それが効率というものだから、仕方ないんだろうか。本当に?

 

 調味料がいつの間にか「ニセモノ」にすりかわっているという事実。そして子どもたちは、そんな「まがいもの」の味を「本物」だと覚えていく現実。

 恐ろしいことではないでしょうか。

 人気主婦雑誌では、いかに食品を安く購入するかの知恵や小技がこまごまと紹介されています。「しょうゆ138円、砂糖98円」などと底値表まで紹介されており、いかに安く買うかという記事ばかりが目に付きます。

 「安く買うこと=賢い主婦」

 そう言わんばかりです。

 しかし、肝心の「なぜ安いのか」についてはちっとも触れられていません。

 1000円のしょうゆが存在する一方で、198円のしょうゆが特売で売り出されているのはなぜか。5倍もの価格差が存在する理由は何か。

 繰り返しになりますが、そういう「素朴な疑問」が大切なのです。

 

私たちは自分が口に入れるものにさえ疑問を持たなくなってしまっているんだなあ、と思った次第です。

 

あ、だけど添加物が絶対悪だという本ではないので、あしからず。 

 

 

 

【読書日記】利己主義を貫いてみる。

そろそろ読んどこうかと思い、D・カーネギーの「人を動かす」を読んでおります。

 

ずっと思ってたけど、タイトルがなんとも、思い切ってますよねえ。まあ、これくらいインパクトがあった方が本は売れるのか。

 

まだ読み始めたばかりなんですが、ちょっと未来の自分に覚えておいてほしい箇所があったので。

 

 死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。その批評が当たっていればいるほど、効果はてきめんだ。

 およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。

 

 

私は小さい頃から、人に強くものを言うのが苦手でした。

それは気の弱さ、自分に対する自信のなさからでした。

もし相手とおなじ過ちを犯したら、もっと非難されて、もっと恥ずかしい思いをするという思いが常にあった。いわば利己主義なんです、昔から。

 

陰口を言ってしまうことはあったから、全然ただの小心者なんですが。(笑)

 

だけど利己主義自体は、あながち悪いものでもないのかも、と最近は思い始めました。

本当の意味で、長期的な目で自分のためを考えるなら、人を批判したり、陰口を叩くことはやっぱりしない方がいい。さらっと利己主義ではなく、それを貫いちゃえばいいのでは?とか考えているんですが、まだまだ検証中の段階です。

 

  人を批評したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。

 理解と、寛容は、すぐれた品性と克己心をそなえた人にしてはじめて持ちうる徳である。

 英国の思想家カーライルによれば、

「偉人は、小人物の扱い方によって、その偉大さを示す。」

 

若いときは人付き合いがへたで有名だったベンジャミン・フランクリンの成功の秘訣は、「人の悪口は決していわず、長所をほめること」だったそうです。

 

人の悪口を言わないと決めたのなら、徹底的に言わないこと。心に留めておこう。

 

 

 

【気になる本】自分を知ること。

ブログを書き始めて一ヶ月程が経ちました。

 

そもそもなぜこうしてブログを書くようになったのか?と考えてみると、「自分の話を聴いてあげるため」なのかな、と思いました。

 

このブログを書くうえで意識していることは、「本音で書く」ということだけです。できるだけ他者の目は気にせず、思ったままを書くことを意識しています。

 

そうすると、もう一人の自分に対して語りかけているような、そんな感覚があって。それが過去の自分なのか、未来の自分なのか、はたまた今の自分なのかはわからないけれど。

 

こうやって気持ちを言葉にして書き出すことに意味があるように思います。

 

もちろん、話を聴いてくれる相手がいるなら、声に出すこともいいと思います。

 

その辺はそれぞれ自分に合う方法があるのかな、と。

 

私の場合は、思考速度がとてもゆっくりなので、誰かが目の前にいるとどうしても自分の思考と発する言葉のスピードにズレが生じます。

 

そうすると、だんだん自分の思考を無視して、相手に合わせた受け答えをするようになってしまいます。

 

もちろん、普段の生活ではそうするしか仕方ないんですが、そればかりだと、自分の本音の置き場所がない。それは、とても、虚しい感じのするものです。その虚しさに気づいているうちはまだいいんですが。

 

だから、こうして本音の置き場所を自分に用意してあげているのかなあ、という自己分析です。

 

たとえば、ツバメに「泳ぎなさい」といっても無理ですよね。ツバメの体は泳ぐようにはできていないからです。ところが、本来ツバメなのに必死で泳ごうとして、「泳げない自分はダメな存在だ」と、自分にダメ出しをしている人がどれだけいることでしょう。ツバメが泳ごうとするのをやめて、翼を広げて大空を飛ぶことを知ったとき、本当の自由を手に入れ、人生を思いきり楽しめることでしょう。「自分を知る」とはそういうことです。 

 

「自分を知る」って大切だなあと思う今日この頃です。