【読書日記】とぼとぼに。
ずいぶんブログを放置してしまいました。
「なんだか書くことがないなあ」
とぼーっとしていたらこんなに時間が経っていました。
最低でも月一回は書きたいと思っていたのに。
あやうく二ヶ月も放置するところだった。
まあいいや。とぼとぼに書いていきます。
(とぼとぼに、と言う言葉はこの前友達が使っていて、なんだか響きが好きで気に入っています)
それともうひとつ。ずっと書けなかった理由を言っておくと、、、
最初は勢いに任せて、沸き起こる熱意のままにあれこれ書いていたものの、ここにきてどう見られるか?を気にし始めてしまいました。
そうすると、そもそも私なんかがだらだら文章を書いて何の意味があるんだ?誰が読むんだ?恥をさらしているだけなのでは?とか考え始めてしまい、堂々巡り。無駄に思考の滑車を回り続けていました。
好きなことを好きなときに書くためにブログを始めたはずなのに。自分にとって大事なことを、自分のペースで考えるために。
だから、こういうことについてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。
そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。
これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことはコペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。
思想とか言うとなんだか高尚なかんじがしてしまいますが、自分の感じたことに真正面から向き合って、それを深堀していけたらいいなと思います。
周りからはどんなに馬鹿に見えてもいいから、ここは自分にとって大切なことを考えるための場所にしていこうと、改めて思いました。(だから同じようなことを毎回書いてるかもです。すみません。)
【映画日記】「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。
時々、映画館に行きたくなります。
あの空間が好きなんだと思います。
映画館に行くための口実として、観たい映画を探し出す。なんてことをしちゃいます。
そうして探していると、原作が村上春樹の短編の映画が上映されていることを知り、観てきました。しっかり予習もしていきました。
一番の感想としては、疲れました。(笑)
原作が50ページ程度の短編だし、上映時間は2時間位だろう。軽ーく観れるかんじだろう。と完全に油断しておりました。
実際はすごく長くて、3時間位ありました。しかも、さすがは村上春樹の世界観を映像化しているだけあって、とにかく抽象的。最初から最後まで抽象的。
これはこれで疲れるものなんだなーと思いました。「集中して観よう」と力みすぎていたのもあるかな?予習までしちゃったものだから。
たぶん、村上春樹の小説と同じく、集中して観るようなものじゃないんでしょうね。(失礼だろうか)
いかに脱力するか、と言いますか、、
以前「ガケ書房の頃」という本を読んだのですが、その本の著者であり書店経営者でもある山下賢二さんが、毎日書店に立って感じたことがあったそうです。
それは「突き詰めると、人が興味を持っているのは性と生と死だけ」ということ。
なるほどたしかに。とそのとき思ったのですが、村上春樹の小説を読んでいると、まさにそれらを上手い具合に煮詰めて凝縮させているなと感じます。
だからたまにおえっと気持ち悪くなる。
だけどそんな実感さえも大切にして、ただ感じていればいいということなのかな。
私は村上春樹の小説が大好きなんですが、いつもよくわからないかんじで始まってよくわからないかんじで終わります。だけどこのわけわからん浮遊感みたいなのが気持ちいい。それに、読む前と読んだ後で、確かに自分の中の何かが変わっている気がする。(村上春樹的なことを言ってみました)
他のみんなはどんな風に読んでいるんだろう。
一度小説を読んでいる人の頭の中を覗いてみたいです。きっとそれぞれ全然違う世界が繰り広げられているんだろうな。
映画の感想を書いていたのに全然違う話になってしまいましたので、「ドライブ・マイ・カー」に出てくる印象的な言葉で終わろうと思います。
どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。
ところで原作だと車は黄色なんだけど、映画では赤色だった。何か意味があるのかな。
【日記】はじめまして中毒
精神科医で作家の樺沢紫苑先生のYoutubeを見ていて、幸福には3種類あることを知りました。
(パソコンでは上手く描けなかったので、手書きです、、、)
樺沢先生によると、なぜみんな幸せになれずもがき続けているのかというと、それはこの3種類の幸福を積み上げる順番を間違えているからなんだそうです。
ところで、このドーパミン的快楽というものがなかなか厄介なものでして、みんなすぐにこれに飛びついちゃうみたいです。それは仕事の成功だったり、短期的な恋愛だったり、ギャンブル、アルコールなんかも。
なぜ厄介なのかというと、強烈な快楽は決して長くは続かず、しかも依存性が高いから。いつまでももっともっとと追い続けてしまう。
それってある意味では地獄のような気も、、、
意外だったのが、「ワクワクする」感情もドーパミン的快楽ということ。
実際に旅行に行っているときよりも、その計画を立てているときの方がワクワクしていたりするのは、より多くドーパミンが出ているからなんだとか。なんでも、ドーパミンというのは「この先何かいいことがある」と感じたときに出るものらしいです。
私の場合、ある時期"はじめまして"の人に会うことに嵌ってしまい、これは好奇心によるものだからきっと良いことなんだと思っていたのですが、どうやらドーパミンによる仕業だなと、ちょっと危ぶみはじめました。
初めての人に会うことの何がそんなに楽しいのかを考えてみると、これもまた、実際にあっている最中よりも「どんな人かなあ。仲良くなれるかなあ。」なんて考えてるときの方がワクワクしていたりするんですよね。
実際にあってみると疲れの方が大きかったりして。
それでもまた誰かしらに会いたくなるのは、おそらくこのときに分泌されるドーパミンに依存してしまっているから。まさに中毒症状なんだなと。
と書いて、なんだか考えすぎのような気もしないでもないですが、、
もちろんドーパミンは良いものですし、幸福には絶対欠かせないものなので、大切なのはきっと依存性になる可能性があるんだと自覚しておくことなんだと思います。
なにより、幸福にとって重要なのは積み上げる順番を間違えないことと、3つのバランスを維持する努力を続けること。
とにかく、今持っているものをひとつずつ大切にしていけたらいいなと思った次第です。
【読書日記】推敲に必要なもの
「20歳の自分に受けさせたい文章講義」第4講まとめです。いよいよ最後です。
・編集の2段階
・図に描き起こせるか?
・映像が思い浮かぶか?
・推敲に必要なものは?
詩文を作るとき、最適の字句や表現を求めて考え練り上げることを”推敲”と言う。
そして推敲の基本とは、ハサミを使った編集である。
編集には2段階ある。
書き終えたあとの編集と書きはじめる前の編集だ。
書きはじめる前の編集においては、「何を書くか?」ではなく「何を書かないか?」が重要となる。足し算で考えがちな頭を、引き算に切り替えてみる。
引き算に切り替えることで、文章を考えることは自分にとって大切なものや自分の価値観を考えることになる。それはつまり、自己探求と自己分析の作業となる。
そして書き終えたあとの編集においては、”編集者”の眼を持つこと。
編集の見事な映画というのは、無駄なカットがひとつもない。どんなに些細な1シーンでも、それが入る意味を監督は説明できるものだ。
文章に置き換えるなら、
「なぜここにこの一文が入るのか」
「なぜここにこの一文が入らないのか」
これを説明できるようにしておくということだ。
読者にとって、冗長な文章ほどつらいものはないということを肝に銘じておこう。
推敲とは過去の自分といまの自分の対話であり、最大の禁句は「もったいない」なのである。
また、推敲においてチェックすべきポイントがある。
著者は本書において、この2点を繰り返し唱えてきた。
”論理”の重要性
”面倒くさい細部”の大切さ
これらをチェックするために、推敲における問いかけが必要となる。
論理が破綻していないかどうかは、
「この文章を図に描き起こすことはできるか?」
面倒くさい細部を描くことができているかどうかは、
「この文章を読んで”映像”が思い浮かぶか?」
読者にとってつらいのは「文字だけを追わされること」であり、逆に言うといい文章とは、情景がくっきりと思い浮かび、まるで体感しているかのような文章である。
たとえば、「銀座のカフェでおいしいサンドイッチを食べた」というブログ記事で、読者にサンドイッチの味をイメージさせ、「自分もその店に行きたい!」と思わせること。そして実際に時間とお金をかけて足を運ばせること。あるいは自宅でサンドイッチをつくらせること。食べた事実を伝えるだけでは、いい文章とは言えない。読者を動かしてこそ、いい文章なのだ。
村上春樹の小説を読むといつもサンドイッチを食べたくなるよなあ、、、
そういえば、推敲は最大の趣味だと、村上春樹は言ってました。推敲ができるから小説を書いているようなものなんだとか。
最初はだいたい流れのままにさっと書いてしまって、あとからしっかりと手を入れていきます。最初からみっちり書いていこうとすると、流れに乗ることがむすかしくなるので。
推敲にとってもっとも大事なのは、親切心です。読者に対する親切心(サービス心ではなく親切心です)。それを失ったら、小説を書く意味なんてないんじゃないかと僕は思っているのですが。 「村上さんのところ」
サービス心ではなく親切心。
なるほど。
てことで、「20歳の自分に受けさせたい文章講義」ようやく終わりです。
長々と書いたけど、あまり難しく考えず、参考程度にしようっと。
【読書日記】自分の頭でわかったことだけを書く
本は大好きなんですが、ほんとうに読むのが遅いです。
一生かかっても、読書家だなんて名乗れなそう、、
ま、そんなことはさておき、ようやく「20歳の自分に受けさせたい文章講義」第3講を読んだので、引き続きまとめておきます。
- 読者の椅子に座る
- ”難解な文章”ではなく”平易な文章”へ
- ”説得”するのではなく”納得”させる
- ”自分の頭でわかったこと”以外は書かない
まず、文章を書くことにおける大前提として決して忘れてはならないことがある。
それは、どのようなものでも、文章には必ず読者が存在するということ。
このようなブログでもそうだし、手元のノートに綴っているだけの日記でもそれは変わらない。そこには、他ならぬ”自分”という読者が存在する。たとえ読み返すことがなくても、少なくともそれは”いまの自分”に向けて書かれているはずだ。
となると、読者をイメージすることの重要性に気づく。イメージするとはつまり、「相手の椅子に座る」ということだ。
そこで、我々が座れる2人の椅子 がある。
- 10年前の自分
- 特定のあの人
このどちらかだ。
”10年前の自分”に向けてなら、「もしこれを10年前に知っていたら!」と思うことを書けばいい。誰にだってあるはずだ。そうすることで、言葉に強度が出る。必ず読み手に届くものになる。それは結果的に、今を生きている「見知らぬ誰か」のためになる。
そして文章を書いているとついつい嵌まりがちなのが、「多数派の罠」である。”みんな”から喜ばれようとする八方美人な文章ほど、誰からも喜ばれない。人においても言えることだろう。
ならば思い切って、”特定のあの人”の椅子に座ってみる。
ぼんやりとではなく、こと細かく、極端なまでにイメージする。なぜならそうすることで、言葉のベクトルがはっきりするため、「その他の人々」にも届きやすくなるからだ。
そして次に忘れてはならないのが、「専門性に溺れていくと、文章はどんどん雑になる」ということ。
これはなんとなくわかる。難しいことを易しいことばで語れる人ほど賢い人だというのは、よく聞く話だ。
大切なのは、読者に甘えないこと。
内輪だけで盛り上がろうとしないこと。
そのために、椅子に座る「特定のあの人」でも「10年前の自分」でもないもう一人の読者を想定する。つまり、本当のイミでの他人を想像する。これでうちのオカンは理解できるんか?と考えてみる。
それが、「話し言葉から書き言葉へ」つなげるということだ。
難解な文章が、”賢い人の文章”だというのは、大きな間違いだ。
難解な文章とは、読者の読解力に甘えた、内輪向けの文章にすぎない。
あらゆる人に開かれた”平易な文章”ほど難しいものはないのである。
また、「集中して書いたもの」が「集中して読んでもらえる」と思うのは大間違いである。
我が身を振り返ってみればわかるはずだ。大好きな作家の小説だって、半分寝ながら読んだりするものだ。
もしちゃんと読んでほしいなら、「読者の姿勢を変えること」を意識する必要がある。
人の心を動かしたいなら、説得ではなく納得させるという道もある。押すのではなく、引くことで向こうから歩み寄ってもらう。
前提として、人は基本的に、他人事には興味がない。
(なんだか身も蓋もない話です、、、)
となると、身を乗り出すかどうかは「当事者意識の有無」にかかっている。
「正しい」だけで心が動くほど、人の心は単純ではないということだ。
そして読者を納得させるための具体的な方法は、文章のはじめに仮説を提示してみること。そうすることで読者を議論のテーブルへと引っぱりこむ。
仮説と言っても難しく考える必要はない。そもそもあらゆる主張は仮説なのである。
いわゆる「常識」に対する自分の疑問を提示してみるのもいい。
問題は、仮説を自分ひとりのものにするのか、それともみんなと共有するのか。
仮説を共有し、読者とともにムダな回り道を楽しんでみる。そうすることで結果的に、読者は説得されるのではなく納得する。
最後に、ものすごーく重要な、文章を書くうえでの大原則がある。
「文章には”自分の頭でわかったこと”以外は書いてはいけない」
なぜなら、文章とは、答えを示すものではなく、その解き方を示すものだから。数学のテストで、答えだけ書いても正解にならないのと同じだ。答えだけ書いていたらむしろ、カンニングしたことがばればれである。
つまり、ゴールまでの道のりを、自身の試行錯誤を描く必要がある。
となると何をすべきか?
まずは自分で解く。
自分で解くことをサボった文章には、必ずほころびが出る。
もし「ゴール地点を見せること」だけが目的であるならば、長々と文章を書く必要はない。あらゆる文章は箇条書きで事足りてしまうだろう。
文章が必要で、そこにツッコミや寄り道が必要なのも、すべて「ゴールまでの道のり」を示すためなのである。
そして文章が”答え”ではなく”解き方”を示すものであるならば、まずは自分自身の手によって問題を解いておかなければならない。
そう言われても、ついつい難しいことを書いて、自分を賢く見せたくなってしまいますよね、、、
”自分の頭でわかったこと”まではいかなくとも、”自分の頭で考えたこと”を書くようにしていきたいです。
【日記】自己都合で聞いていないか
先日の夕暮れ時、京都の街を歩いていたらこんな言葉に出会いました。
「聞いている」つもりの人が世の中にはどれだけいるんだろう。
そして私自身、どれくらいの意識を傾けて相手の話を聞いているだろうか。
そもそも「こころで聞く」ってなんだろう、、、
そんなことを考えてしまいました。
「人は話しているか、それ以外の時間は次に話すことを考えている」と、誰かが言っていました。(うーん。誰だったかが思い出せない、、)
「次はどんな上手いことを言ってやろうか」
「どんな上手い返事をしてやろうか」
相手が話しているときも、いつだって見ているのは自分ばかり、、、
本当は、会話が成り立っていると思い込んでいるだけ。
キャッチボールをしていたつもりが、実はそれぞれ壁打ちをしていて、ボールはそこらじゅうに転がりつづけているのかもしれません。
よく考えると喧嘩というのも、お互い相手の話を聞かないことが根本原因なんじゃないかとさえ思います。
誰にも話を聞いてもらえないことに、みんなイライラし続けている。そんな気がします。
でもだからこそ、ちゃんと話を聞いてもらえたときに勝る快感は、ちょっと他にはないように思う。
偉大な心理学者ジムクント・フロイトは、偉大な聞き手であった。かつてフロイトと話す機会のあった人が、つぎのように説明している。
「フロイトのことは生涯忘れられない。彼には、私がこれまでに会っただれにもない資質が見受けられた。彼の目はおだやかでやさしかった。精神分析のときの”魂を見通す眼”など全く感じさせない。声は低く、あたたかで、身振りはほとんどない。わたしのことばに注意を集中し、へたないい回しにも耳をかたむけ、それなりの評価を与えてくれた。このような聞き方をしてもらえたことが、わたしにとってどんなにすばらしい経験だったかご想像にまかせる」。
まさにミヒャエル・エンデが描くモモですよね!
彼女がただ一つだけ持っていた、かけがえのない才能。
私たちに欠けている、とても尊いものに思います。
私も、じっと聞いてくれる相手がいるからこそ、丁寧に言葉を発しようと思います。それにはまず、自分が相手の話を丁寧に聞いてあげること。こんなシンプルなことを、何で見落としてしまうんだろう、、
そういえば、こんな言葉もありました。
人の話をよく聞き、口数を少なくするために、人間には耳がふたつ、口がひとつついている。
古代ギリシャの哲学者、ゼノンの言葉です。何ともシンプルですよね。思わず納得してしまいます。
ところで、ブログ記事はだいたいパソコンで書いているのですが、最近キーボードの反応がすこぶる遅いです。じっくり言葉を噛み締めて聞いてくれてるのかなあということで、まあよしとしています。(ほんとは調べるのが面倒なだけ)
【日記】朝
近所の100円ショップをふらふらと物色していたら世界地図が置いてあり、ちょっとばかし悩んだ挙句、買ってしまいました。
ずっと前から地球儀がほしいなーとは思っていて。
でもよく考えたら置き場所に悩むし、良いものはそれなりに高いし、なんて思ったりして保留中でした。
そんななか100円ショップで世界地図を発見してしまい、これなら壁に貼れるし、なによりも安い!というなんとも安易な結末です。(ほんとに”安易”という文字通りだ、、、)
そもそもなぜ地球儀が欲しかったのかというと、、、
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝返りをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき 耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
谷川俊太郎さんの、この詩が大好きで。
たしか小学校の国語の教科書に載っていて、それからずーっと心に残り続けています。
この詩を読むと、他の国はどの順番で朝をリレーするのか、いつでも確認したいという気持ちがありました。
それにしても、地球は常に回っているんだという不思議と感動を、いつも思い起こさせてくれる素晴らしい詩ですよね。
日常を送っているとついつい忘れてしまいがちだけど、本当に不思議です。
子どもの頃の日常はこうした不思議だらけだったのに、大人になると全部あたりまえになって何も疑問を持たなくなってしまいます。
それはもしかしたら、謙虚さを忘れているだけなのかもしれない、なんて思いにふけったり。 (だって不思議なことには変わりないし、、)
みんなそれぞれ違う生活を送っているけど、朝は平等にみんなの元へ来てくれます。
私は早起きじゃないので久しく朝陽を見れてないんですが、たまには見に行こうと思います。
そしてこれからは朝起きてすぐにこの地図を見て、 今日も無事に朝をリレーしたんだなと毎日ほくそ笑んでやろうと思います。
とにかく、ちいさな夢がひとつ叶いました!それもたったの100円ほどで。(正確には110円)
嬉しいです。
(ちなみに写真は夕焼けです。朝焼けの写真がなかった、、、)
【日記】夏炉冬扇
言葉収集癖が治りません。
以前、職場の同僚にそのことを話すと、
「中学生とかってそういうことするよね」
と言われてしまいました。
そうか大人はこんなことはしないのかと思い、それからは人には言わないようになりました。(そのあとちょっと落ち込みました、、)
それでも今も変わらず、素敵な言葉に出会うとノートやスマホに必ずメモしてしまいます。子どもがおもちゃを集めるみたいに、自分のものにしたくなります。
こんなことやっても意味はないのかなと思い、やめようかと思ったこともあるけど、最近はちょっと開き直りつつあります。だって、やめられないものは仕方ない。
だから毎日、素敵な言葉を探し歩いているし、人から貰えた日には嬉しくて舞い上がります。
そして、最近初めて知って素敵だなと思った言葉は
『夏炉冬扇』です。
(これはほんとに散歩中に拾いました!)
暑い夏に火鉢を使い、寒い冬に扇を持ち出すのは、時季外れで間が抜けています。「夏炉冬扇」は、そんな役立たずのものごとを指します。
このことばの元になる文章は、漢代の「論 衡 」にあります。
当時、一般の人は、「夏炉冬扇」のようなことをやっていては出世できない、と考えていました。でも、「論衡」の著者は、むしろ逆のことを主張します。
「夏の火鉢は湿気を乾かすし、冬の扇は火をおこす。出世できるかどうかは、結局、主君とウマが合うかどうかだ」。つまり、いい主君に巡り会えば、「夏炉冬扇」でも役に立つわけです。
ただ、今日では、やはり役立たずのものごとを指します。当時の一般人の感覚のほうが、私たちには合うようです。出典 四字熟語を知る辞典四字熟語を知る辞典について 情報
夏炉冬扇とは名前のとおり、時期はずれな無用の物事、役に立たないもののたとえらしいです。松尾芭蕉も、「文学は夏炉冬扇だ」と言ったそう。
たしかに言われてみれば、芸術だとか文学だとかはそういうものなのかも。
無用のもの。無益のもの。
うーーん。
でもないと困りますよね?私は到底生きていけません。というかそれがない世界には生きたくない。
まあそんなことはさておき、
夏炉冬扇。
私はこの言葉、大好きです。
【日記】頑張る
「頑張ります」
学校とか仕事とかで、この言葉をよく書いたり言ったりした。とりあえずそう言っておくことで、大してやる気のない自分を奮い立たせるというか。
そういうときの「頑張る」には、どこか自分への強迫めいた響きがあった。
人からもよく言われた。
みんな私と同じように、とりあえず言っておけば間違いない言葉なんだと思う。そこにもやはり、強迫めいた響きとか、明るさを強制するような響きを感じていた。その頃はそんなこと気づいてなかったけど。
言葉は前向きなはずなんだけど、心はかちこちに固まっていて、とてもじゃないけど身動きが取れない感じがあった。
だから何年か前に、私はこの言葉が嫌いなんだと気づいた。それからは言わないことにした。どうしても耳にすることは多かったけど、正直あまり聞きたくなくて、言われたくなかった。
それと関連したような言葉、「努力」とか「一生懸命」もあまり使わなかった。
だけど最近になって、すんなり言ってしまうことが多くなった。「あれ?言っちゃった」みたいな、軽い気持ちで口にすることがある。(と言っても普通の人が言う回数よりかはかなり少ないと思う)
なぜだろう?
と考えてみた。
それは、私自身のこの言葉に対する囚われというか、執着心みたいなのが消えてきたのかなと思った。
使わないように、聞かないようにすればするほど、それはむしろ執着していたのかなと。
もちろん、今だに「頑張れ」に強迫めいた響きを感じることはある。だけどそれ以上に、明るい響きを感じ取れるようになった。
「私はあなたを応援しているよ」
この気持ちがこもった「頑張れ」を、素直に受け取れる自分になったということなのかな、と思う。
きっと、言葉自体に執着し過ぎていたんだろう。言葉の中身を受け取る努力は、やっぱりしなきゃなんですね。
【頑張る】
[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「―・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」
だけどやっぱり、この言葉自体はあんま好きじゃないです、、、
これの代わりになってくれるちょうどいい言葉、ないかなあ。
【植物日記】沈静
思い切って、ばっさりと剪定してみました!
ちょっとはましになったかな?
葉っぱが日光を浴びたときのきらきらは、なんだか神聖なものを感じますね。朝から思わず見とれてしまいました。
ところで、私としたことが、大事な花言葉を調べるのをすっかり忘れていました。
調べてみると、アロマティカスの花言葉は「沈静」みたいです。
たしかに、この愛らしい見た目や優しい匂いで、いつも心を落ち着かせてくれているように感じます。
「あせらないで。のんびりいこうよ」
そんな風に言ってくれてると、これからは空想してやろうと思います。
ちん‐せい【沈静】
〘名〙 (形動) 落ち着いて静かなこと。動かず静かになること。また、そのさま。
なんとなく、改めて意味を調べたくなりました。なんだか、仏様なんかを想像してしまう言葉ですね。
良い言葉です。