パンの耳がすき

読書日記と、たまにカフェ日記。植物日記も。

【読書日記】添加物だらけはちょっと嫌だ。

青年:尊敬ってのはね、自分もそうありたいと請い願うような、あこがれにも似た感情のことを指すのですよ!
 
哲人:いいえ。それは尊敬ではなく、恐怖であり、従属であり、信仰です。相手のことをなにも見ておらず、権力や権威に怯え、虚像を崇めているだけの姿です。
尊敬(respect)の語源となるラテン語の「respicio」には、「見る」という意味があります。まずは、ありのままのその人を見るのです。あなたはまだ、なにも見ていないし、見ようとしていない。自分の価値観を押しつけようとせず、その人が「その人であること」に価値を置く。さらには、その成長や発展を援助する。それこそが尊敬というものです。他者を操作しようとする態度、矯正しようとする態度には、いっさいの尊敬がありません。

 

大人になると人は、先入観とか、常識で縛り付けられている状態がふつうになる。

 

食べ物で言うと、添加物だらけの状態だ。

 

もちろん、無添加で生きていくのはちょっと厳しいかもしれない。

 

だけど添加物で埋め尽くされて、もはや本質が空っぽみたいな状態は、ちょっと嫌だ。

 

自分の心の声を無視し続けていると、きっとそうなってしまうんだと思う。

 

 

すなおな心で、他者を尊敬するということ。

 

とても簡単で、とても難しい。

 

互いのあいだに尊敬が存在しないのなら、そこには人間としての「関係」も存在しないでしょう。そのような組織は、たんなるネジやバネ、歯車のように「機能」としての人間が集まっているに過ぎない。機械のような「作業」はこなせても、人間としての「仕事」は、誰にもできないのです。
 
ただ「子どもたちの関心事」に関心を寄せるのです。あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。自分もやってみて、場合によっては共に遊ぶ。「遊んであげる」のではなく、自分自身がそれを楽しむ。そのときはじめて、子どもたちは自分が認められていること、子ども扱いされていないこと、ひとりの人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。
子どもだけではありません。これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です。会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと「他者の関心事」に関心を寄せる必要があります。

 

たった一人でも、もしも本当に横の関係を築くことができたのなら、その人の世界は大転換するそうだ。

 

横の関係を築くには「すなおな他者への尊敬」が不可欠だ。

 

これは頑張ってするものではなく、今までの人生でくっつけてきた余計な添加物を引っぺがしていくと、うまくいくんじゃないだろうか。

 

もちろん全部取っ払っちゃうと危険だから、気持ち程度は残して。

 

共同体感覚についてアドラーは、好んでこのような表現を使いました。われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。