パンの耳がすき

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【読書日記】読み手中心主義

「史上最強の哲学入門」を読んでいて、デリダの”読み手中心主義”というものがおもしろいと思った。

 

”読み手中心主義”を簡単に説明すると、こんなかんじ。

 

「わからないものは、しょうがないじゃない。だから、もう作者(話し手、書き手)の意図なんて、それほど気にしなくてもいいじゃない。読み手それぞれが、文章を読んで好きに解釈したらいいじゃない。そして、そのそれぞれの解釈が真理(正解)ってことでいいじゃない。

 

我々は言葉をやり取りしているだけであって、意図をやりとりしているわけではない。

そもそも相手の意図を完全に理解するなんてことは絶対に不可能であり、もはやそれは傲慢とも言える。

 

会話とは、言葉を使うときの状況から推測した「きっとこういうことだろう」という「(決してホントウかどうか確かめられない)個人の解釈」によって成り立っているのである。

 

「大事なのは本質であって、言葉なんてのは問題じゃない。」

前にある人から、こんなことを言われた。だからその人は、目的を果たすためなら汚い言葉だって平気で使うそうだ。

 

もちろん、言葉というのは伝えたいことがあってこそだとは思う。本質こそが重要なのは間違いない。

 

だけど、本質の伝達手段が言葉であるというのもまた真実である。

 

人は言葉によって考え、伝え、解釈する。そしてその解釈は人によって異なる。

 

解釈が人によって異なるからこそ、言葉を使うとき「相手がこの言葉を聞いてどう思うか?」という想像力が必要になる。

 

となると、「本質さえ伝わればいい」と思って汚い言葉を使うことで相手に伝わるものはなにか。ちょっと想像してみればわかるのではないだろうか。

 

伝わるのは本質ではなく、その周りを覆っている悪意のみではないだろうか。結局伝えたいことなんてものはどこかへ消え去り、残るのはお互いの不快感だけだ。

 

 そして、だからこそ、デリダは「読む(解釈する)」ということを重視する。それが実態に即しているからだ。僕たちは、一般的に、聞き手は「話し手の意図」という真理に到達できるし、到達して当然だと思い込んでいる。そして、意図を伝えられない話し手や、意図に到達できない聞き手を、コミュニケーションができないダメ人間として非難する。しかし、現実には、「意図」なるものは、到達できない真理であり、想像したり解釈したりするしかない不確実な代物なのである。

 

 結局、僕たちが到達できるのは「書かれた文章」「話された言葉」だけであり、それらの文章や言葉から、各人が自分の真理(その言葉の意図)を構築していけばいいし、「そもそも各人が自分で構築するものなのだ」という自覚こそが重要なのである。 

 

解釈は人によって異なるという事実を知り、割り切るからこそお互いの想像力でそれを補おうと人は努力する。むしろそうすべきなんだと思う。