【書評】「柳は緑、花は紅」。私たちは自然の一部でしかなくて、身構える必要などない。スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫氏が三人の禅僧と禅問答。『禅とジブリ』
ジブリ作品には、禅としても学べることがたくさん詰まっている。
例えば、禅で、梁の武帝が「お前は何者だ」と達磨に訊くと、達磨は「不識(わからない)」と答える、という問答がありる。「もののけ姫」では、ヤマイヌのモロが主人公の少年アシタカに「お前にサンを救えるか」と訊く。それにアシタカは「わからぬ」と答える。その後にこう続ける。
「だが、共に生きることはできる」。
これは、達磨の言った「不識」ではないだろうか。私たちは、明日の天気もわからないような存在である。けれども幸せを祈って生きていくことはできる、というのが仏教の根底にある思想だ。
「不識」、つまりわからないことこそが人生であり、むしろわかってしまったらおもしろくない。
「もののけ姫」を見たとき、著者が思ったのは、「これは新人監督の作品だ」だった。
著者と宮崎駿監督に共通するのが、何でも忘れちゃうこと。
あれだけ映画を作ってきた宮崎監督が、新しい映画の制作に入るときの口癖がある。
「作り方忘れちゃった」。
つまり、いつでも初心に戻れる。「もののけ姫」を作るとき、絵コンテを見て、その初々しさにとにかく著者は驚いた。それまで培ってきたカット割りだとか、空を飛ぶシーンだとか、自分の得意技を全部封じ、それまでの作り方を全否定した。著者は、この人は五十歳を過ぎてもこんな初々しいものを作れるんだ、と驚いた。
禅では、「日々是好日」という言葉がある。「いい日ばかりじゃないけど、いかにいい日にしていくかが大事なんだ」というのがこの言葉のメッセージ。とりあえず今日、そしてめくったら忘れる。そうやって生きていくことが幸せに生きるということなのかもしれない。
「魔女の宅急便」を作るときに、宮崎駿監督と著者が考えたのは、「空を飛ぶ能力は特別か」ということだった。そして、「特別ではない」と決めた。絵がうまいとか、走るのが速いといった、誰しもひとつは持っている得意なことに過ぎない、と。
この作品では、ある日急に飛ばなくなった魔女のキキが、友人の少年トンボを助けるために、また空を飛ぶ。心が傷ついて当たり前にできていたことができなくなり、無心になった瞬間に、またそれができるようになる。これは私たちにもあることだ。キキがまた空を飛べるようになったのは、風邪を引いて寝込む、あの場面があったからなのかもしれない。自分にベクトルを向ける座禅のような時間だったんじゃないか。自分との対話をすることで、自己を確立していないキキが自分になるプロセスを映画にしたのかもしれない。
禅が目指すのは、禅だけが至れる場所ではなく、それぞれほかの道からでも行ける場所。