【旅行日記】気持ち良い風と、さらさらの床
風通しが良くて、空気が美味しくて、誰にも急かされたりしない。
そんな場所が好きです。
ちょっとした田舎へ、プチ旅行へ行ってきました。
ふと見つけたブックカフェに入ってみたら、あまりにも居心地が良かった。
靴を脱いで入るお店だったんですが、床がさらさら気持ち良くて、小さなころ友達のお家へ遊びに行ったときのわくわくした感覚を思い出しました。
田舎なので解放された窓から入ってくる空気も澄み切ってておいしい。
体が喜ぶってのはこういうことなんだなと妙に納得してしまいました。
また行きたいなあ。
【読書日記】希望
楽しく生きるために必要なものは希望かもしれない。
そんなふうに思うようになりました。
それはささいなことで全然かまわなくて。
例えばこのブログだって、希望の一種なんだろうと思います。(全然更新できてないけど)
それは別にお金儲けにつながらなくても。
世界とつながっていて、誰かとつながる可能性が必ずあるわけです。
とにかく発信しよう、という言葉をよく聞くのは、要するに希望の種を蒔こうってことなんでしょうね。
べつにネットじゃなくても、新しい場所に行ったり、新しい人に会ったり、新しいことに挑戦してみたり、、
すぐに実にはならなくても、すくなくとも種は蒔けるわけですよね。
まわりから見るとすごく安定して、まっとうな生活を送っているはずの人が自殺してしまったりするのも、希望が見えなくなったからなのかもしれないですね。
世の中のことに興味を持って学んだり、まだ見たことのない世界に足を踏み入れたりすることは、本質的には「仕事」とは関係がありません。実際、「仕事が忙しい」ことを理由に、いつのまにかごく小さな世界に閉じこもっている人は決して珍しくありません。
なんとなく前向きな気持ちになれるから、占いってけっこう好きです。
【読書日記】愚痴ることで陥る悪循環
最近すこしストレスが増えていたみたいで、いつの間にか愚痴を言うことが多くなってしまっていました。
ふと気付くと友だちに愚痴を吐いてしまっていて、そのことを指摘されて、はっとしました。
愚痴ることで、自分の中でぐるぐると悪感情ばかりが溜まり、余計に何事においても悪いことばかりに目がいくようになる。悪循環に陥っていました。愚痴って、その瞬間はちょっとすっきりするんだけど、結局は何も解決しないんですよね。
私とは前向きな関係でいたいからやめてほしいと、はっきり言ってくれた友だちに感謝です。軌道修正してくれました。
それと、「あの人はわかってくれない」と勝手に邪推してしまうところが私にはあるなと思いました。
誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではありません。そうではなく、意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。
あなたには断る余地もあるのだし、もっといい方法を提案する余地もあったはずです。あなたはただ、そこにまつわる対人関係の軋轢を避けるために、そして責任を回避するために「断る余地がない」を思っているのですし、縦の関係に従属しているのです。
対人関係の軋轢を避けない勇気を持とう。
それにしても、悩むたびに「嫌われる勇気」を開いてしまいます。
【読書日記】他の星のはなし
自分を否定する言葉を吐く人というのは往々にして、それを聞く人のことも傷つけます。
否定しているということは何らかの基準で自分を評価しているということ。そしてそれは周りの人のこともその基準で評価していると宣言しているようなもの。
そんなとき、私はまんまと傷ついてしまいます。
「私は私」といくら心の中で唱えたって、なかなか逃れることは難しいです。
だからそんな時は、逆に自分が「思い込み」を手放すといいらしいです。
「相手がじぶんの領域に踏み込んでいる」という「思い込み」を手放すことが本当の「解放」につながります。
相手の言動はどうしたって変えられない。
だけど「そもそも相手は自分の領域内で好きに言ってるだけで、私の領域には踏み込んでいない」というふうに解釈を変えることはできる。
あくまでも「相手の感想」ととらえてしまう。
言わば”他の星のはなし”。
「その考え方は間違っているよ」などと言われたときには、「決めつけられた」と思い込むのではなく、「相手はそう思ったんだ」という範囲にとどめれば、「自分の領域」を侵されないですみます。実際に、相手がそう思ったのは、「相手の領域」内の話です。ですから、「そう思うんだね」「考えておくね」という程度の受け答えで十分なはずです。
【読書日記】良い空気を吸いたい
自己肯定感の低さに、ようやく気づきました。
(認められるようになった、の方が正しいかな?)
何かに取組んでいる時は忘れていられるけど、それがなくなるとすぐに自分を責め始めてしまう。ずーっと心に悪魔がいて、刃物かなにかでずぶずぶやられ続けてるような感覚です。
つい外側の状況を改善しようと躍起になってしまいますが、やっぱり違うな、と。
自分の心とちゃんと向き合いたいです。
ということで、親友が勧めてくれた、精神科医で対人関係の専門医である水島広子先生の本を読んでいます。
これは、それほど具体的に感じられるわけではありません。
心地よく温かい空気のように、自分をぽかぽかと満たしてくれる感覚です。
普段はその存在を意識しないことが多いでしょう。
まるで、空気のようなものだからです。空気は、あまりにも当たり前のものなので、その恩恵を感じずに生きている人が多いと思います。でも、空気が足りなくなると、にわかにその存在が致命的に重要だということに気づくものです。
自己肯定感もそんな感じです。
自己肯定感は、人がネガティブな思考にとらわれずにのびのびと温かい人生を歩むための「空気」のようなもの。
自己肯定感が高いと、自分のダメなところ探しをすることもなく、自分らしい人生を生きていくことができます。自分や身の回りの人や物事、景色を、明るい目で見ていくことができるのです。
深く、気持ち良く呼吸できるようになれるといいなあ。
ところで、メルカリで購入したんですが、前の持ち主さんの努力の形跡が。
「良く生きたい」という気持ちが伝わってくるようです。
【読書日記】期待しない年
はてなスターを消してみました。
気にしないようにしていたんですが、どうしても一喜一憂してしまう自分がいたので。(気にしないようにしてる時点で気にしまくりなんですよね、、)
寂しくなってそのうち戻すかもですが、とりあえずまあ実験的に消してみます。
ところでちょっと今更ですが、今年のテーマを「諦める」に決めました。(かといってべつに毎年テーマを決めてるわけじゃないです)
何事にも期待せずに一年を過ごしてみようと思います。
こう書くとすごく悲観的な人間と思われそうですが、べつにそういうわけじゃないです。
「期待」という言葉は良い意味で捉えられがちだけど、実はけっこうな厄介者だなと思っています。
自分に対しても他人に対しても、「こうあってほしい」という思いがあるから期待してしまう。
たとえば、「あの人が嫌い」と思うのも、「ほんとうはこうあってほしい」という自分の願望があって、勝手にそれと現実の差に落胆しているだけなのかなと。
それは自分の妄想や理想を相手に押し付けていることなんだと思います。
理想と現実や、過去と今を比較して、その差に喜んだり落ち込んだり、、
そんなことばかりしていると、あまりにも自分が可哀想な気がします。
そして厄介なのは、ほとんど無意識でそれをしてしまっていること。
だからこのブログだって、続けることを自分に期待せず、適当に気楽に書いていこうと思います。
「そう。みんな若いときは自分の人生を大袈裟に考えるじゃない。過大評価もいいところなんだけどさ。ぼくもそうだった。自分の人生は有意義で輝いていないといけないと思い込んでた。でも実は地味な性格で、そのギャップにすこし苦しんでた。そういう考え方が、十年間ブラブラしてたら変わった。」
「どんなふうにですか?」
「人間なんて、呼吸をしてるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事をして、恋をして、ピアノを弾いて__」
人生に対して大袈裟になりたくないなあ、なんて思う今日この頃です。
【読書日記】あたりまえ
人によって感覚は違うんだということを、つい忘れてしまいます。
例えば、自分はすごく近いと思っていた距離が、他の人にとってはめちゃくちゃ遠かったり、自分は多いと感じていた食事が他の人にとっては少なかったり。
それは時間においてもそうで。
人生における時間感覚も人それぞれなはずなのに、みんなあまりにも義務教育によって画一化されて、それを当然としてしまっているように思えます。
「〇〇歳だとこうあらねばならない」
みたいなのは、やっぱり苦しいです。苦しく感じるということは、私も親や世間から押し付けられたそういった常識から抜け出しきれていないんだと思います。
昔、あるほのぼの系ユーチューバーさんの動画を見ていて、その方が「私にとっての一日は、みんなにとっての一週間くらいなんです」と言っていました。そのときは「ふーん」くらいにしか思わなかったんですが、今になってなんだか妙に納得しています。
つまりそういうことなのさ、、
お互い理解しあえるのは
ほとんど「点」なんだよ
同じ構造の脳をもつはずの
人間どうしでさえ
例えば魂を交換できたとしたら
それぞれ想像を絶する世界が
見え 聴こえるはずだ
またまた「寄生獣」から。
どんなに客観的になろうと努力したって、それも含めて結局は主観でしかないんだから、「あたりまえ」なんてあるわけがないんですよねえ。
「あたりまえ」を押し付けないようにしよう。
自分にも他人にも、、
【読書日記】ヒマ
やはり暇というのはよくないものです。
ちょっと脳に暇を与えると、すぐに後悔や不安が浮かんできてしまう。
そんなときに物語だとかは助けてくれます。
暇つぶしというと聞こえはよくないのかもしれないけれど、ものすごく貴重な存在です。
というか考えてみると何もかも暇つぶしだな。
本もゲームも仕事も、、
あまりにも平和ボケした、能天気すぎる考えなのでしょうか。
ある日道で出会って
知り合いになった生き物が
ふと見ると死んでいた
そんな時
なんで悲しくなるんだろう
そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ
だがなそれこそが人間の
最大の取り柄なんだ
心にヒマが
ある生物
なんとすばらしい!!
「寄生獣」の最終巻に出てくる言葉です。
そっか、そう考えると暇とは必要なものかもしれないですね。
平和な世界でありますように。
【読書日記】「わたし」を脱却できるか
友だちが読んでいて、気になったので「論語と算盤」を読んでみました。
勧められたわけじゃありません。どちらかと言うとむしろその逆で、「あまり賛同できない部分も多々ある。」みたいに言っていました。
そんな風に言われると、あまのじゃくな私は逆に興味を持ってしまいます。
彼女はいったいどんなところに共感できなかったんだろう?
そう思って読み始めました。
読んでみると、たしかに今の時代にそぐわないところはあるように感じました。古い時代特有の、無条件に親を敬うべきみたいな空気感とか、、
だけど根っこの部分は納得できました。
「もし、みんなのためのことを考えずに、自分一人の利益ばかり考えれば、人から欲しいものを奪い取らないと満足できなくなる」
たとえば鉄道の改札を通り抜けるにも、狭い場所で我先にとみながひしめくことになる。これでは誰も通れなくて困ってしまうのだ。
人生の最後まで自分を磨き、自己追求しながらも、彼の主語はいつだって「わたしたち」だったんだろうな。
私も、いつかは「わたし」を脱却できるようになりたいものです。
成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスに過ぎない以上、気にする必要などまったくないのである。
【読書日記】グーグル効果というらしい。
昨夜、ある歌手が街の人にサプライズで路上ライブをするという動画を見ていて、ひとつ思ったことがあります。
それはとても感動的な動画だったんですが、なんだか違和感が、、
気づいたのは、ほとんどの人がスマートフォンを持って、録画しながら、それ越しに歌手さんを見ていること。
なんだかスマートフォンが目になり耳になってるんだなあと思ってしまいました。
判明したのは、写真を撮っていない作品はよく覚えていたが、写真を撮った作品はそれほど記憶に残っていなかったことだ。パソコンに保存される文章を覚えようとしなのと同じで、写真に撮ったものは記憶に残そうとしないのだ。脳は近道を選ぶ。
「写真で見られるんだから、記憶には残さなくていいじゃないか」
我が身を振り返ってみると、たしかに綺麗な空なんかを見ると、瞬時に「撮ろう」と思ってしまうようになったなあ。
そして撮ったら満足してしまう。
「よし、これであとで見れる。もういいや」と。
良い悪いは別として、これってなんだかものすごくもったいないことをしているような、、
もちろん、撮影していた人がいるから私はその動画を見て楽しむことができたわけで、なんとも言えん話ではあるんですが。
その瞬間を楽しむことを、脅かされないように気をつけようと思いました。
(とか言いながら前に撮った東京タワーの写真を載せちゃいます。なかなかお気に入りです。)