【読書日記】文章は眼で考える。
「20歳の自分に受けさせたい文章講義」第2講を読みました。
第2講のテーマは文章の構成について。
- 文章の妙、個性、面白さを決めているのは論理展開である
- 導入部分の重要性を考える
- 論理のマトリョーシカを意識する
- 構成と文章は別物である
まず第1講で習ったとおり、文書のリズムは論理展開によって決まる。そしてそれは文章の面白さに直結する。論理展開と言えば「起承転結」や「序論・本論・結論」といった型があるが、これらはなかなか固い印象があり、イメージしづらい。
そこで、著者のおすすめは映画などの映像表現を参考にするという方法。つまり、文章を書く人間も”カメラ=眼”の存在を意識してみようということだ。
- 導入…客観(俯瞰)のカメラ 遠景
- 本編…主観のカメラ 近景
- 結末・エンディング…客観(俯瞰)のカメラ 遠景
映画と同じようにカメラを意識して書くことで、文章と文章のあるべき順番が理解しやすくなる。そして文章全体にメリハリがつくことでリズムがよくなり、説得力が増す。
次に、つい見落とされがちだが、文章において非常に重要である導入部分について。
文章を書く人間が決して忘れてはならない事実がある。
それは、読者はいつも「読まない」という最強のカードを持っているということだ。
最初の数行を読んでつまらないと思ったら、もう読んでもらえない。自分が読む立場のときを考えたらわかるはずだ。つまらない文章なんてハナから読まない。となると、導入は構成よりも重要とさえ言える。
読者はいつも「読まない」という最強のカードを手に、文章と対峙しているのである。
となれば、導入の目的はひとつしかないだろう。
読者を劇場へと誘導し、まずは”椅子”に座ってもらうことだ。
本編の上映は、そのあとの話である。
さて、ここで少し原点に立ち返ってみる。
そもそも論理とは何か。
「論理的である」とは「論=主張」が「理=理由」にかなっているということ。つまり、自らの主張がたしかな理由によって裏打ちされたとき、その文章は「論理的」だと言える。
論理的な文章とは、マトリョーシカと似た構造である。
この3種構造が守られているのが、論理的文書と言える。
こんなの当たり前だと思われるかもしれないが、一番重要な「主張」さえない文章は、意外なほどに多い。
それはどんな文章かというと、読者がそれを読み終えたあとに「結局なにが言いたかったんだ?」と困惑するようなものだ。身に覚えがないだろうか?(正直私は耳が痛いです、、)
文章を読むとき、読者は必ず「この人はなにが言いたいのだろう?」と考えながら読んでいる。書き手の姿が見えないことには、読み手の軸も定まらないのだ。
そして最後に知っておくべきは、構成と文章は別物だということだ。
文章を書いていて、だんだん話が違う方へ逸れていったり、自分でも何が言いたいのか分からなくなったことはないだろうか?
それはおそらく、構成を考えていない、あるいは構成と文章をごちゃまぜに考えていることが原因である。
これも映画に置き換えるとわかりやすい。
例えるなら、文章は脚本や俳優の演技であり、構成はカメラ割と編集である。そもそもの役割が違うので、文章と同じように構成を考えていたら必ずつまずいてしまう。
ではどうすればいいのか?
文章の構成にも絵コンテの発想を持ってくる。
要するに、対象を可視化してしまうのだ。
なかでも著者のおすすめは、文章を図にして考えること。方法はシンプルだ。対象となるキーワードを書き出し、マルや四角で囲んで、矢印でつなげていく。そうすることで文章の「流れ」と「つながり」が明確になる。
ここでのポイントは、随所に「なぜか?」を入れること。すると文章の流れが美しくなる。
そして論理展開におかしなところがある場合は、矢印がうまくつながらない。つまり矢印は「眼で見る接続詞」なのである。矢印がうまくつながるかを見ることで論理展開の正しさをチェックすることができる。
われわれは自分の頭のなかを覗くことはできない。
頭のなかをうごめいている「ぐるぐる」は、
可視化することによってようやく客観視できるのである。
ところで、今日の文章はさっそく図を使って構成してみました。
なんとなく、思考がクリアになって書きやすかった。
ちょっとは読みやすくなってるといいなあ。
この図解本はわかりやすかった!