パンの耳がすき

読書日記と、たまにカフェ日記。植物日記も。

【読書日記】自分の頭でわかったことだけを書く

本は大好きなんですが、ほんとうに読むのが遅いです。

一生かかっても、読書家だなんて名乗れなそう、、

  

ま、そんなことはさておき、ようやく「20歳の自分に受けさせたい文章講義」第3講を読んだので、引き続きまとめておきます。

 

  •  読者の椅子に座る
  • ”難解な文章”ではなく”平易な文章”へ
  • ”説得”するのではなく”納得”させる
  • ”自分の頭でわかったこと”以外は書かない

 

まず、文章を書くことにおける大前提として決して忘れてはならないことがある。

 

それは、どのようなものでも、文章には必ず読者が存在するということ。

 

このようなブログでもそうだし、手元のノートに綴っているだけの日記でもそれは変わらない。そこには、他ならぬ”自分”という読者が存在する。たとえ読み返すことがなくても、少なくともそれは”いまの自分”に向けて書かれているはずだ。

 

となると、読者をイメージすることの重要性に気づく。イメージするとはつまり、「相手の椅子に座る」ということだ。

 

そこで、我々が座れる2人の椅子 がある。

  1. 10年前の自分
  2. 特定のあの人

 このどちらかだ。

 

”10年前の自分”に向けてなら、「もしこれを10年前に知っていたら!」と思うことを書けばいい。誰にだってあるはずだ。そうすることで、言葉に強度が出る。必ず読み手に届くものになる。それは結果的に、今を生きている「見知らぬ誰か」のためになる。

 

そして文章を書いているとついつい嵌まりがちなのが、「多数派の罠」である。”みんな”から喜ばれようとする八方美人な文章ほど、誰からも喜ばれない。人においても言えることだろう。

 

ならば思い切って、”特定のあの人”の椅子に座ってみる。

 

ぼんやりとではなく、こと細かく、極端なまでにイメージする。なぜならそうすることで、言葉のベクトルがはっきりするため、「その他の人々」にも届きやすくなるからだ。

 

そして次に忘れてはならないのが、「専門性に溺れていくと、文章はどんどん雑になる」ということ。

 

これはなんとなくわかる。難しいことを易しいことばで語れる人ほど賢い人だというのは、よく聞く話だ。

 

大切なのは、読者に甘えないこと。

内輪だけで盛り上がろうとしないこと。

 

そのために、椅子に座る「特定のあの人」でも「10年前の自分」でもないもう一人の読者を想定する。つまり、本当のイミでの他人を想像する。これでうちのオカンは理解できるんか?と考えてみる。

 

それが、「話し言葉から書き言葉へ」つなげるということだ。

 

難解な文章が、”賢い人の文章”だというのは、大きな間違いだ。

難解な文章とは、読者の読解力に甘えた、内輪向けの文章にすぎない。

あらゆる人に開かれた”平易な文章”ほど難しいものはないのである。

 

 

また、「集中して書いたもの」が「集中して読んでもらえる」と思うのは大間違いである。

 

我が身を振り返ってみればわかるはずだ。大好きな作家の小説だって、半分寝ながら読んだりするものだ。

 

もしちゃんと読んでほしいなら、「読者の姿勢を変えること」を意識する必要がある。

 

人の心を動かしたいなら、説得ではなく納得させるという道もある。押すのではなく、引くことで向こうから歩み寄ってもらう。

 

前提として、人は基本的に、他人事には興味がない。

 (なんだか身も蓋もない話です、、、)

 

となると、身を乗り出すかどうかは「当事者意識の有無」にかかっている。

 

「正しい」だけで心が動くほど、人の心は単純ではないということだ。

 

そして読者を納得させるための具体的な方法は、文章のはじめに仮説を提示してみること。そうすることで読者を議論のテーブルへと引っぱりこむ。

 

仮説と言っても難しく考える必要はない。そもそもあらゆる主張は仮説なのである。

 いわゆる「常識」に対する自分の疑問を提示してみるのもいい。

 

問題は、仮説を自分ひとりのものにするのか、それともみんなと共有するのか。

 

仮説を共有し、読者とともにムダな回り道を楽しんでみる。そうすることで結果的に、読者は説得されるのではなく納得する。

 

 

最後に、ものすごーく重要な、文章を書くうえでの大原則がある。

 

「文章には”自分の頭でわかったこと”以外は書いてはいけない」

 

なぜなら、文章とは、答えを示すものではなく、その解き方を示すものだから。数学のテストで、答えだけ書いても正解にならないのと同じだ。答えだけ書いていたらむしろ、カンニングしたことがばればれである。

 

つまり、ゴールまでの道のりを、自身の試行錯誤を描く必要がある。

 

となると何をすべきか?

 

まずは自分で解く。

自分で解くことをサボった文章には、必ずほころびが出る。

 

もし「ゴール地点を見せること」だけが目的であるならば、長々と文章を書く必要はない。あらゆる文章は箇条書きで事足りてしまうだろう。

 

文章が必要で、そこにツッコミや寄り道が必要なのも、すべて「ゴールまでの道のり」を示すためなのである。

 

そして文章が”答え”ではなく”解き方”を示すものであるならば、まずは自分自身の手によって問題を解いておかなければならない。

 

そう言われても、ついつい難しいことを書いて、自分を賢く見せたくなってしまいますよね、、、

 

”自分の頭でわかったこと”まではいかなくとも、”自分の頭で考えたこと”を書くようにしていきたいです。