【読書日記】どこにでもある羞恥心
自分のブログをあとから読み返すと、強烈に恥ずかしくなることが多々ある。消してしまおうかとさえ思う。(みんなどうしてるんだろう?そんなこと思わないのかな)
だけど「本音で書く」と決めているから、いちいち消していたらきっとなにも書けなくなる。だから今は、なんとか羞恥心に耐えている。
そういえば、「自分の小説を読まれることは裸で街を歩き回るよりも恥ずかしい」みたいなかんじのことを、村上春樹がどこかで言っていた。あんな大作家でも恥ずかしいのなら、自分のちっぽけなブログなんて、もっともっと自由に書いちゃえばいいような気もするけど、、
それにしても羞恥心というのは、どんなところにでもあるものなんですね。(というかこれも承認欲求の一種なのかな?)
ラブレターは何も考えずに書き始めること
そして何を書いたか考えずに、書き終わらせること
フランス革命に大きな影響を与えたスイスの哲学者・ルソーはこんなことを言ったそう。
誰かに思いを伝えるときに大切なのは、心の底から湧き上がってくる感情をそのままぶつけることだ。そして、あとから冷静な目で書いたものを読み返したりしないこと。カッコつけるよりも、素直な気持ちを伝えるべきだ。
ラブレターとブログはちょっと違うのかもしれないけれど。でも「読者に思いを伝える」という意味では同じなのかな、と。
客観が大事だという声をよく聞くけれど、そうするとどうしても「思い」は薄まってしまいますよね。主観と客観。うーん。むずかしいです、、
【日記】ちゃんと言葉にする
小さなひまわりが咲いていたよ!
と、友だちが写真を送ってくれました。
こういうささやかな喜びを一緒に味わえる友だちがいることに、今はものすごく幸せを感じます。
なんだか、すこし大人になったような気もするし、反対にちいさな子どもに返ったような気も、、、
不思議な気分です。
これまで、いろんなものを見落としていたように思います。
自分では見ているつもりだったのに、ほんとは何も見えていなかったんだなあ、と。
私にも、そんなことに気付けるくらいの余裕はできたみたいです。
そして、心から話し合える友達ができて気づいたことがあります。
それは、今まで自分は人に対してちゃんと言葉を伝えていなかったんだな、ということ。
いいことも嫌なことも、言葉にしなくても伝わることなんて、やっぱりなくて。
言葉にしなくても伝わるようになるためには、むしろたくさんの言葉が必要なんだと思うようになりました。
別に食い違ってもいいから、まずは言葉にしないとなにも始まらない。
今までの私は自分からは全然話さないくせに、「みんななにもわかってくれない」なんて思っていました。わかってくれないんじゃなくて、なにも始まってなかったんですね。
リリー・フランキーさんも、「結婚とは相手とちゃんと言葉で褒め合うこと」だと、著書で言っていました。ほんとうにそのとおりなんだろうな。
これからも、相手の良いところをどんどん言葉にして伝えてあげたいです。
じつは、他人は「あなたが人にはしないこと」も、してくれているんです。
でも、心の穴を埋めようと必死な人は、「自分が他人に求めてるようなこと」しか理解できないので、他人がしてくれる「あなたがしないようなこと」を、うけとれないし、してくれていることに気づけないのです。
壁を作ってるのは、自分のほうだったりするんですよね。
【読書日記】文章は眼で考える。
「20歳の自分に受けさせたい文章講義」第2講を読みました。
第2講のテーマは文章の構成について。
- 文章の妙、個性、面白さを決めているのは論理展開である
- 導入部分の重要性を考える
- 論理のマトリョーシカを意識する
- 構成と文章は別物である
まず第1講で習ったとおり、文書のリズムは論理展開によって決まる。そしてそれは文章の面白さに直結する。論理展開と言えば「起承転結」や「序論・本論・結論」といった型があるが、これらはなかなか固い印象があり、イメージしづらい。
そこで、著者のおすすめは映画などの映像表現を参考にするという方法。つまり、文章を書く人間も”カメラ=眼”の存在を意識してみようということだ。
- 導入…客観(俯瞰)のカメラ 遠景
- 本編…主観のカメラ 近景
- 結末・エンディング…客観(俯瞰)のカメラ 遠景
映画と同じようにカメラを意識して書くことで、文章と文章のあるべき順番が理解しやすくなる。そして文章全体にメリハリがつくことでリズムがよくなり、説得力が増す。
次に、つい見落とされがちだが、文章において非常に重要である導入部分について。
文章を書く人間が決して忘れてはならない事実がある。
それは、読者はいつも「読まない」という最強のカードを持っているということだ。
最初の数行を読んでつまらないと思ったら、もう読んでもらえない。自分が読む立場のときを考えたらわかるはずだ。つまらない文章なんてハナから読まない。となると、導入は構成よりも重要とさえ言える。
読者はいつも「読まない」という最強のカードを手に、文章と対峙しているのである。
となれば、導入の目的はひとつしかないだろう。
読者を劇場へと誘導し、まずは”椅子”に座ってもらうことだ。
本編の上映は、そのあとの話である。
さて、ここで少し原点に立ち返ってみる。
そもそも論理とは何か。
「論理的である」とは「論=主張」が「理=理由」にかなっているということ。つまり、自らの主張がたしかな理由によって裏打ちされたとき、その文章は「論理的」だと言える。
論理的な文章とは、マトリョーシカと似た構造である。
この3種構造が守られているのが、論理的文書と言える。
こんなの当たり前だと思われるかもしれないが、一番重要な「主張」さえない文章は、意外なほどに多い。
それはどんな文章かというと、読者がそれを読み終えたあとに「結局なにが言いたかったんだ?」と困惑するようなものだ。身に覚えがないだろうか?(正直私は耳が痛いです、、)
文章を読むとき、読者は必ず「この人はなにが言いたいのだろう?」と考えながら読んでいる。書き手の姿が見えないことには、読み手の軸も定まらないのだ。
そして最後に知っておくべきは、構成と文章は別物だということだ。
文章を書いていて、だんだん話が違う方へ逸れていったり、自分でも何が言いたいのか分からなくなったことはないだろうか?
それはおそらく、構成を考えていない、あるいは構成と文章をごちゃまぜに考えていることが原因である。
これも映画に置き換えるとわかりやすい。
例えるなら、文章は脚本や俳優の演技であり、構成はカメラ割と編集である。そもそもの役割が違うので、文章と同じように構成を考えていたら必ずつまずいてしまう。
ではどうすればいいのか?
文章の構成にも絵コンテの発想を持ってくる。
要するに、対象を可視化してしまうのだ。
なかでも著者のおすすめは、文章を図にして考えること。方法はシンプルだ。対象となるキーワードを書き出し、マルや四角で囲んで、矢印でつなげていく。そうすることで文章の「流れ」と「つながり」が明確になる。
ここでのポイントは、随所に「なぜか?」を入れること。すると文章の流れが美しくなる。
そして論理展開におかしなところがある場合は、矢印がうまくつながらない。つまり矢印は「眼で見る接続詞」なのである。矢印がうまくつながるかを見ることで論理展開の正しさをチェックすることができる。
われわれは自分の頭のなかを覗くことはできない。
頭のなかをうごめいている「ぐるぐる」は、
可視化することによってようやく客観視できるのである。
ところで、今日の文章はさっそく図を使って構成してみました。
なんとなく、思考がクリアになって書きやすかった。
ちょっとは読みやすくなってるといいなあ。
この図解本はわかりやすかった!
【植物日記】植物は素直です
アロマティカスの鉢替えが、ようやく完了しました。なにせ植物を育てるのは小学生以来なもので、、
なかなか手際よくいきません。
一昨日初めて行ったお花屋さんで、やっと自分が探していたイメージにぴったりな鉢を見つけて。
意気揚々とおうちに帰ったのですが、鉢替えの方法を調べてみると、なんと鉢底に石を積まなきゃなんだとか。(そんなことも知らなかったのです、、)
そんなこんなでようやく必要なものが揃い、今朝鉢替えを完了させました。
アロマティカスは乾燥気味に育てるものなのと、鉢替え前ということで、数日間お水をあげてませんでした。だからどことなく元気がなく気になっていたのですが、、
今朝お水をたっぷりあげると、
この喜びよう!!
(剪定の下手くそさにはどうか目を瞑っていて下さい。精進します。)
とっても素直です。かわいいです。
私もアロマティカスを見習おうと思います。
雨を感じられる人間もいるし、
ただ濡れるだけの奴らもいる。
ボブ・マーリーさんの言葉が思い浮かびました。
植物は全身で感じていますよね〜。
【日記】ささやかな出会いを発展させるには。
今日はHSP交流会なるものに初めて参加してきました。
HSPであるかどうかには、そこまでこだわりはないのですが。
HSPの本を読んでみると、チェック項目にあてはまるものが多く、交流会があることも書いてあったので、とりあえず調べて行ってみました。
あ、ちなみにHSPとはこういうものです。ウィキペディアから。
Highly Sensitive Personとは、環境感受性あるいはその気質・性格的マーカーである感覚処理感受性が極めて高い人たちを表す言葉である。環境感受性とは、ポジティブおよびネガティブな環境刺激に対する処理や登録の個人差を表す特性的概念である。
少しでも考え方や価値観の近い人と出会えたらいいなという、軽い気持ちで。
それと、純粋に友達が欲しい。(笑)
せっかく行ったので、ちょっとここで感想でも記しておこうと思います。
会は全部で2時間だったのですが、大まかに言うとこんなかんじに分けられていました。
- 自己紹介タイム(2人ずつで)
- 質問タイム(グループに分かれて)
- 感想タイム(グループに分かれて)
まず自己紹介では、初対面の人に興味を持つことの難しさを実感。自己紹介をして、そのあとお互いに気になることを質問し合うのですが、これがなかなかリズムよく続かない。自分の質問力のなさを痛感しました。
だけどこればっかりは、相手のことをもっと知りたいという渇望みたいなものがどうしても必要な気がしてしまいます。「とりあえずこんなこと聞いとけばいっか」みたいな質問って、どうしても相手に伝わる気がするんですよねえ。少なくとも私はそう感じてしまう。はて、どうしたものか。
好きだから知ろうとするのか。知るから好きになるのか。難しいところですね。
次の質問タイムでは、それぞれがあらかじめ質問を考えておいて、それをグループのみんなで共有して回答し合うというかんじでした。
私はこんな質問をしてみました。
- 「人間関係でストレスを感じたときの処理方法はありますか?」
- 「生活の中で、誰かといる時間とひとりでいる時間の理想比率を考えるならどんな値になりますか?」
そしてそれぞれの回答は、こんなかんじ。(記憶してる限りでは、、)
- ひとりきりの車の中で熱唱する。とにかく寝る。自然を感じる。受け流す。感じきる。人に話す。
- 誰かといる時間:ひとりでいる時間 1:9、0:10、1:2
全体としては、優しい方が多かったです。そしてみんなひとりが好き。ひとりの時間は大切な充電時間みたいです。
友達関係も、深く話せる相手が数人いれば十分という方が多い印象。
それと、友達を作ることが苦手な方がやっぱり多かったです。だけどこういう場を自分で選択して、勇気を出して積極的に外に出て行っていること自体がとても素敵なことだなと思いました。
しかし、こういう出会いのきっかけから継続した関係性を築くことはとても難しいのもまた事実。「継続した関係を築きたい相手がいなかった」と言ってしまえばそれまでなのですが。
恋愛にしろ、人生全般にしろ、アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。なぜ、多くの人は恋愛に「運命の人」を求めるのか?どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか?その理由についてアドラーは、「すべての候補者を排除するため」だと断じます。あなたのように「出会いがない」と嘆く人も、じつは毎日のように誰かと出会っているのです。よほど特別な事情がない限り、この1年のあいだ誰とも出会わなかったという人はいません。しかし、そのささやかな「出会い」を、なにかしらの「関係」に発展させるには、一定の勇気が必要です。声をかけたり、手紙を送ったり。そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は、どうするか?「運命の人」という幻想にすがりつくのです。目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて「この人ではない」と退け、「もっと理想的な、もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。それ以上の関係に踏み込もうともせず、ありとあらゆる候補者を、自らの手で排除する。こうして過大な、ありもしない理由を持ち出すことによって、生きた人間と関わり合いになることを回避する。それが「出会いがない」と嘆く人の正体だと考えてください。そして可能性のなかに生きているのです。幸せは、向こうから訪れるものだと思っているのです。
哲人はこんなことを言っていたけど、、、
実践するのはなかなか難しいものです。
【読書日記】読み手中心主義
「史上最強の哲学入門」を読んでいて、デリダの”読み手中心主義”というものがおもしろいと思った。
”読み手中心主義”を簡単に説明すると、こんなかんじ。
「わからないものは、しょうがないじゃない。だから、もう作者(話し手、書き手)の意図なんて、それほど気にしなくてもいいじゃない。読み手それぞれが、文章を読んで好きに解釈したらいいじゃない。そして、そのそれぞれの解釈が真理(正解)ってことでいいじゃない。
我々は言葉をやり取りしているだけであって、意図をやりとりしているわけではない。
そもそも相手の意図を完全に理解するなんてことは絶対に不可能であり、もはやそれは傲慢とも言える。
会話とは、言葉を使うときの状況から推測した「きっとこういうことだろう」という「(決してホントウかどうか確かめられない)個人の解釈」によって成り立っているのである。
「大事なのは本質であって、言葉なんてのは問題じゃない。」
前にある人から、こんなことを言われた。だからその人は、目的を果たすためなら汚い言葉だって平気で使うそうだ。
もちろん、言葉というのは伝えたいことがあってこそだとは思う。本質こそが重要なのは間違いない。
だけど、本質の伝達手段が言葉であるというのもまた真実である。
人は言葉によって考え、伝え、解釈する。そしてその解釈は人によって異なる。
解釈が人によって異なるからこそ、言葉を使うとき「相手がこの言葉を聞いてどう思うか?」という想像力が必要になる。
となると、「本質さえ伝わればいい」と思って汚い言葉を使うことで相手に伝わるものはなにか。ちょっと想像してみればわかるのではないだろうか。
伝わるのは本質ではなく、その周りを覆っている悪意のみではないだろうか。結局伝えたいことなんてものはどこかへ消え去り、残るのはお互いの不快感だけだ。
そして、だからこそ、デリダは「読む(解釈する)」ということを重視する。それが実態に即しているからだ。僕たちは、一般的に、聞き手は「話し手の意図」という真理に到達できるし、到達して当然だと思い込んでいる。そして、意図を伝えられない話し手や、意図に到達できない聞き手を、コミュニケーションができないダメ人間として非難する。しかし、現実には、「意図」なるものは、到達できない真理であり、想像したり解釈したりするしかない不確実な代物なのである。
結局、僕たちが到達できるのは「書かれた文章」「話された言葉」だけであり、それらの文章や言葉から、各人が自分の真理(その言葉の意図)を構築していけばいいし、「そもそも各人が自分で構築するものなのだ」という自覚こそが重要なのである。
解釈は人によって異なるという事実を知り、割り切るからこそお互いの想像力でそれを補おうと人は努力する。むしろそうすべきなんだと思う。
【読書日記】文章のリズムを意識する。
「20歳の自分に受けさせたい文章講義」の第一講を読んだので、自分なりにまとめておく。
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文体とはリズムである
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視覚的リズムを考える
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聴覚的リズムを考える
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断定することでリズムを持たせる
まず、そもそも文体とは何かと言うと、それはリズムのことである。ここで気をつけなければならないのが、「リズム」とは決して感覚的なものではなく、どこまでも論理的なものであるということだ。
つまり、文章のリズムは「論理展開」によって決まる。論理的であるかではなく、「論理」を「どう展開するか」が重要である。
論理破綻に気づくためのキーワードは、「接続詞」だ。みんなもっと接続詞を使うべきであり、大切なのは接続詞をあいまいにしないことである。
そして次に意識すべきは、「読者は文章を”眼”で読んでいる」ということ。
そのために、まずは視覚的リズムを意識する。
視覚的リズムとは?
わかりやすくいえば、文字や句読点が並んだときの、見た目の気持ちよさだ。本屋さんでパッと本を開いた瞬間、ネットのブログ記事を見た瞬間、受け取ったメールを開いた瞬間。読者はこの一瞬で「なんか読みやすそう」「なんか読みづらそう」を判断している。
視覚的リズムを生む3要素は以下3つ。
- 句読点の打ち方
- 改行のタイミング
- 漢字とひらがなのバランス
そんな視覚的リズムをとるための著者のアドバイスは、
- 一行の間に必ず句読点をひとつは入れる。
- 改行のタイミングは早くていい。最大5行あたりをメドにする。
- 漢字とひらがなのバランスを考える。
要するに、視覚的なリズムを邪魔するものとは圧迫感なのである。
そして次に、聴覚的リズムを考える。聴覚的リズムとは、耳で聴いたときのリズム、実質的には「音読したときのリズム」のことだ。
音読してチェックすべきは次の2点。
- 読点「、」の位置
- 同じ言葉の重複
読む(黙読)という行為が受動的になりやすいのに対し、能動的に行われる音読は自分と作者との差異が明確になりやすい。そのため音読は、自分に客観性を持たせる助けになる。
最後に、文章にリズムを持たせるもうひとつシンプルな方法が、断定である。
断定の言葉には、文章の論理性や正確性をも凌駕しかねない切れ味の鋭さがあり、リズムと勢いがある。しかし、断定の言葉はその切れ味の鋭さゆえのリスクが伴う。断定の言葉は、あまりに強すぎるのだ。
断定はハイリスク、ハイリターンである。だからそれを避ける人は多く、そうするとどうしても歯切れの悪い言葉になる。つまりリズムが悪くなり、かっこ悪い。
ではリスクの高い断定という方法を使うためにどうするかというと、論理を使う。断定する箇所の前後を、しっかりとした論理で固めるのである。できるだけ論理を正確にし、細心の注意を払うこと。
著者的には、みんなもっと断定すべきだと思うそうだ。
自信があるから断定をするのではなく、自信を持つために断定する、というアプローチを考えてもいいのではなかろうか。
逃げも保険も打たず、力強く断定すると、それだけで言葉に説得力が出る。
言葉に説得力があると、周囲の人たちは信頼してくれる。
周囲からの信頼を実感できると、自信が湧いてくる。
自信があるから断定するのか、断定するから自信が湧くのか、どちらが先なのかは大きな問題ではないだろう。
読者は説得力のある言葉を求めており、言葉の説得力は「断定というリスク」を冒してこそ生まれるのだ。
【読書日記】10人のうち2人は親友になれる。
ときどき、全く知らない人と出会える場所に出向くようにしている。
それはちょっと刺激的で、楽しい。だけど自分の現状を話したりすると、相手の言葉に不用意に傷つくこともある。そんなとき、もう人になんか会いたくないと思う。
だけどあとから振り返ると、そういうときはただ視野が狭くなっているだけなのだとわかる。人はどうしても、悪い方にフォーカスしがちだ。暖かい目で見てくれている人も、そこには必ずいたはずなのに。
たしかに、世の中は善人ばかりではありません。対人関係のなかで不愉快な思いにさらされることは、多々あるでしょう。しかし、このとき間違っていけないのは、いずれの場合も攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではない、という事実です。
神経症的なライフスタイルを持った人は、なにかと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使います。「みんな自分を嫌っている」とか「いつも自分だけが損をする」とか「すべて間違っている」というように。もし、あなたがこれら一般化の言葉を口癖としているようなら、注意が必要です。
アドラー心理学では 、こうした物事の一部分だけを見て全体を判断する生き方のことを「人生の調和」を欠いた生き方だと考える。
大切なのはたった一部分だけを見て世界を判断しないこと。脳は不安要素を優先して探し出すようにできているということを心得ておくこと。ミクロとマクロの視点を持つこと。
ユダヤ教の教えに、こんな話があります。「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ」と。
このとき、あなたを嫌う1人に注目するのか。それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスをあてるのか。あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。人生の調和を欠いた人は、 嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまいます。
10人のうち2人が親友になれるというのはちょっと言い過ぎな気もするけれど。
だけどそれくらいの希望は持っておいても悪くないんじゃないかと思う。
【日記】コテンラジオがすきです。
散歩のとき、基本的に音楽を聴いていることが多いんですが、たまにSpotifyでコテンラジオを聴いています。コテンラジオというのは、”歴史を愛し、歴史を知りすぎてしまった歴史GEEK2人と圧倒的歴史弱者がお届けする歴史インターネットラジオ”というやつです。
なんの話の回だったかよく覚えていないんですが、とてもいい話だなーと思ってスマホにメモを残していたので、それをちょこっとここに記しておこうかなと。
深井さんが歴史をずーっと学んできて思ったことは、「感情を大事にした方がいいし、結果的にロジカル的に見てもそうなる」ということだったそうです。
なぜなら、人を機能としてみていると、チームは必ず崩壊するから。そもそも人を道具としてみていると信頼関係は築けないそうです。
そして大前提として、人を理解することなんてできないのだと肝に銘じておくこと。
でもだからこそ、人を理解しようとする姿勢が大事。
人を理解するには忍耐が必要であり、それを続けたときにブレイクスルーが起きる。もやもや、ざわざわ、めんどくさいの先にあるものを見に行く。それでもどうせ理解できない。でもそれをする。
【読書日記】考えるために書く。
「自由に本音をかける場所」としてブログを書き始めたけれど、だからと言って文章力の向上を怠るのはよくないことな気がしてきた。わざわざそんなものをこうして世界に公開しているということは、少なからず誰かに何かを伝えたい、繋がりたいという思いがあるからだ。
ということで、古賀史健さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んでいる。図書館で借りてきたんだけど、とてもよさそうなのでこれは購入しようと思う。
ひとまず、ガイダンスの内容をアウトプットしてみる。
- 「書こうとするな、翻訳せよ」の原則を頭に叩き込む
- 文章とは「頭の中の『ぐるぐる』を伝わる文章に”翻訳”したもの」であるという定義を持つ
- 文章を書きあぐねている人、うまく書けずにいる人は”翻訳”の意識や技術が足りていないのだ、という認識を持つ
- われわれは「書くために考える」のではなく、「考えるために書く」のだということを意識する
- 「書く」というアウトプットのプロセスを通じて、われわれは自分なりの解を得ていく
そもそもなぜ文章を書けないという問題が発生するのか?
著者に言わせると、それは書こうとするからである。書こうとするから、書けなくなるのである。
だからいっそ、「自分の気持ちを書く」という意識は捨て去ってしまおう。
自分の”感じ”や”思い”を文章として正しくアウトプットするためには、書くことをやめて”翻訳”する。頭の中の「ぐるぐる」を整理して、正しく翻訳する。自分という人間の”翻訳者”になってみる。そのために、”翻訳”の意識を持ち、技術を身に付けていく。
われわれはどうして”翻訳”をするのか?
伝えるためだ。
伝えたい相手がいるからだ。
他者でも読者でも、言葉はなんでもいい。
誰かになにかを伝えたい、つながりたいと思うからこそ、”翻訳”をするのだし、しなければならないのだ。
拙い文章ながらも、こうしてブログなんかを書いていると思考が整理されてすっきりする感覚がある。だからこそ頭の中の「ぐるぐる」をもっときちんと翻訳できるようになったら、それはとてつもなく気持ちいいことなんだろうと思う。翻訳できるようになりたい。